1910年- alfaromeoの前身、「ALFA MIRANO」誕生
経営危機に喘ぐフランス・ダラック社のイタリア工場、「ダラック・イタリアーナ」をミラノの企業家集団が
買収して創立した A.L.F.A. (Anonima Lombarda Fabbrica Automobili) 即ち「ロンバルダ自動車製造株式会社」
(ロンバルダとは「ロンバルディアの」の意)を発祥とする。
今に続くミラノ市章の赤十字とかつてミラノを支配したヴィスコンティ家の家紋に由来する人を飲み込む竜 (大蛇といわれるが、正しくは竜である)を組み合わせた同社のエンブレムには、 当初「ALFA MILANO」の文字が刻まれていた。記念すべき最初の生産車は高性能な「24HP」で、 A.L.F.A. はこれを武器に創業1年にして早くもレースを走り始め、その後も「30HP」「40-60HP」の活躍によって スポーツカーメーカーとしての地歩を固めていった。
今に続くミラノ市章の赤十字とかつてミラノを支配したヴィスコンティ家の家紋に由来する人を飲み込む竜 (大蛇といわれるが、正しくは竜である)を組み合わせた同社のエンブレムには、 当初「ALFA MILANO」の文字が刻まれていた。記念すべき最初の生産車は高性能な「24HP」で、 A.L.F.A. はこれを武器に創業1年にして早くもレースを走り始め、その後も「30HP」「40-60HP」の活躍によって スポーツカーメーカーとしての地歩を固めていった。
1918年- 「ALFA ROMEO」誕生
ナポリ出身の実業家ニコラ・ロメオ (Nicola Romeo) が同社を買収し、ここにアルファロメオ のブランドが誕生するが、
正式な会社名はニコラ・ロメオ技師株式会社とされた。このニコラ・ロメオがレース好きだったことが幸いし、
ジュゼッペ・メロージをはじめとするアルファロメオの技術スタッフは更なる高性能スポーツカー開発に没頭。
初期の傑作「RL」シリーズがデビューする。「RL」はあらゆるレースで大活躍し、アルファロメオの名声を一気に高めた。
これに勢いを得た同社は念願のグランプリレースに挑戦するため、当時の最強チームのひとつ、フィアット・グランプリ・チームの 技術者だったヴィットリオ・ヤーノをフィアット内部のゴタゴタに乗じて獲得する。ヤーノのドローイングボードからはGPマシンの傑作 「P2」のほか、同社の屋台骨を支えた高級実用車「6C」シリーズ、や珠玉のレーシング・サラブレッド「8C」シリーズ、 そしてグランプリマシンの歴史に永久に名を刻む名車「P3」が次々と産み出され、アルファロメオの名声は世界に轟くことになる。
かの自動車王ヘンリー・フォードは「私はアルファロメオが通るたびに脱帽(Hat Off)する」と言ったといわれるが、 これはアルファロメオに対する賞賛であると同時に、生産効率に左右されることなく、 少数生産、超高価格販売政策のもとで理想の車づくりに邁進できた同社への皮肉めいた羨望であったかもしれない。
初期の傑作「RL」シリーズがデビューする。「RL」はあらゆるレースで大活躍し、アルファロメオの名声を一気に高めた。
これに勢いを得た同社は念願のグランプリレースに挑戦するため、当時の最強チームのひとつ、フィアット・グランプリ・チームの 技術者だったヴィットリオ・ヤーノをフィアット内部のゴタゴタに乗じて獲得する。ヤーノのドローイングボードからはGPマシンの傑作 「P2」のほか、同社の屋台骨を支えた高級実用車「6C」シリーズ、や珠玉のレーシング・サラブレッド「8C」シリーズ、 そしてグランプリマシンの歴史に永久に名を刻む名車「P3」が次々と産み出され、アルファロメオの名声は世界に轟くことになる。
かの自動車王ヘンリー・フォードは「私はアルファロメオが通るたびに脱帽(Hat Off)する」と言ったといわれるが、 これはアルファロメオに対する賞賛であると同時に、生産効率に左右されることなく、 少数生産、超高価格販売政策のもとで理想の車づくりに邁進できた同社への皮肉めいた羨望であったかもしれない。
1933年- 国営化・・・そして兵器製造へ
世界恐慌に端を発する経営難と政治的圧力からイタリア産業復興公社(IRI)の支配下に入り、事実上国営化される。
その背後には当時イタリアを支配したベニート・ムッソリーニが深く関わっていたといわれる(ミラノで政治基盤を確立した ムッソリーニはアルファロメオを愛用していた)。
高い技術力を持つ同社は国策によって軍需産業に組み入れられ、 本業のレーシングカー、スポーツカーの製作もそこそこに航空機用エンジンをはじめとする兵器製作に力を注ぐことになる。 著名なものとして、マッキ社の単座戦闘機MC202フォルゴーレのエンジンなどがある。
その背後には当時イタリアを支配したベニート・ムッソリーニが深く関わっていたといわれる(ミラノで政治基盤を確立した ムッソリーニはアルファロメオを愛用していた)。
高い技術力を持つ同社は国策によって軍需産業に組み入れられ、 本業のレーシングカー、スポーツカーの製作もそこそこに航空機用エンジンをはじめとする兵器製作に力を注ぐことになる。 著名なものとして、マッキ社の単座戦闘機MC202フォルゴーレのエンジンなどがある。
1943年- 空襲により全壊
ポルテッロ(Portello)にある本社工場が連合軍の3度にわたる空襲によって廃墟と化す。
1947年- 「ALFA ROMEO」自動車の生産を再開
戦前の高級スポーツカー「6C」シリーズの生産を再開。そしてカロッツェリア・トゥーリングの手になる美しいボディをまとった
「6C2500」が、ヴィラ・デステのコンクール・デレガンスで優勝。世界一優美な車として賞賛された。
これを記念して、このタイプは「6C2500 Villa D'Este(ヴィラ・デステ)」と呼ばれる。
これを記念して、このタイプは「6C2500 Villa D'Este(ヴィラ・デステ)」と呼ばれる。
1948年- 改組
経営母体をIRI(イタリア産業復興公社)のまま「アルファロメオ・S.P.A.」に改組する。
1950年- 高級志向から大衆車量産へ
超高級・高性能スポーツカーやGTを少数生産するという戦前までのスタイルを自ら捨て去り、新型の「1900」シリーズを引っさげて
より確実な利益を見込める大衆量産車メーカーへと転身した。しかしながら大衆車であるはずの「1900」にも、
新開発の4気筒DOHCエンジンをはじめ、レースカーで培った高度な技術を惜しみなく投入して開発されていた。
このプライドが後に経営を圧迫していくことになる。
ジュリエッタ・スパイダー1954年、名車の誉れ高い「ジュリエッタ」シリーズがデビュー。最初にセダンボディではなく、 スポーツモデルの「スプリント」が登場した。無論、諸事情があってのことだったが、これもアルファロメオらしいエピソードと言える。 エンジンはアルファの伝統に則ったDOHCで、1300CCの小排気量ながら最高時速160キロという、当時としてはかなりの高性能車だった。
「ジュリエッタ」は、ファミリーカーとしても成功を収める一方、その素性が買われ、多くのエントラントの手で 数多のツーリングカーレースや公道レースに参戦、イギリスやドイツの小型車と激戦を繰り広げた。
高性能な実用量産車という現在のアルファ車のイメージは、この頃に確立されたと言える。
このプライドが後に経営を圧迫していくことになる。
ジュリエッタ・スパイダー1954年、名車の誉れ高い「ジュリエッタ」シリーズがデビュー。最初にセダンボディではなく、 スポーツモデルの「スプリント」が登場した。無論、諸事情があってのことだったが、これもアルファロメオらしいエピソードと言える。 エンジンはアルファの伝統に則ったDOHCで、1300CCの小排気量ながら最高時速160キロという、当時としてはかなりの高性能車だった。
「ジュリエッタ」は、ファミリーカーとしても成功を収める一方、その素性が買われ、多くのエントラントの手で 数多のツーリングカーレースや公道レースに参戦、イギリスやドイツの小型車と激戦を繰り広げた。
高性能な実用量産車という現在のアルファ車のイメージは、この頃に確立されたと言える。
1962年- アレーゼへ移転、「ジュリア」発表
本拠地がミラノ郊外アレーゼへと移された。そして戦後アルファのイメージを決定づけた「ジュリア」シリーズがデビューする。
この車もまた、オールアルミブロックの高性能DOHCエンジン、バルブの材質に熱伝導率の優れたソジウムの使用、5速ミッション、 4輪ディスクブレーキなど当時としては先進的な機能の搭載によって、同クラスの車と比べても高い性能を誇った。
G.ジゥジアーロがデザインした美しいボディのクーペモデルは、今なお戦後アルファの代表格として語られている。 「アルファロメオ」と聞けば、まずこのジュリア・クーペをイメージする人も多い。
「ジュリア」シリーズは、十分な新車開発投資ができないこともあり、排気量の増大によって排ガス規制も乗り切り長期にわたって生産された。 特にダスティン・ホフマン主演の映画「卒業」にも登場した派生モデルの「スパイダー」(デュエット)はクーペの生産終了後、 完全に時代遅れのシャシー性能と動力性能となりながらも、アメリカでの根強い人気に支えられ、マイナーチェンジを繰り返し、 フィアットの血を入れた新しいスパイダーモデルが発表されるまで生き延びた。
この車もまた、オールアルミブロックの高性能DOHCエンジン、バルブの材質に熱伝導率の優れたソジウムの使用、5速ミッション、 4輪ディスクブレーキなど当時としては先進的な機能の搭載によって、同クラスの車と比べても高い性能を誇った。
G.ジゥジアーロがデザインした美しいボディのクーペモデルは、今なお戦後アルファの代表格として語られている。 「アルファロメオ」と聞けば、まずこのジュリア・クーペをイメージする人も多い。
「ジュリア」シリーズは、十分な新車開発投資ができないこともあり、排気量の増大によって排ガス規制も乗り切り長期にわたって生産された。 特にダスティン・ホフマン主演の映画「卒業」にも登場した派生モデルの「スパイダー」(デュエット)はクーペの生産終了後、 完全に時代遅れのシャシー性能と動力性能となりながらも、アメリカでの根強い人気に支えられ、マイナーチェンジを繰り返し、 フィアットの血を入れた新しいスパイダーモデルが発表されるまで生き延びた。
1971年- 「スッド」デビュー
アルファロメオは、商工業が集中する北部(ノルド)に比べ、農業中心で貧しかった南部(スッド)の
雇用創出と経済格差是正という国策に従ってナポリのポリミアーノ・ダルゴに進出、同社初のFF(フロントエンジン・フロントドライブ)
小型大衆車「スッド」をデビューさせた。
「スッド」は廉価モデルでありながらボディ・デザインを「ジュリア」で功績のあった G.ジゥジアーロに託し、スペース効率を上げるために新開発の水平対向エンジンを採用するなど大変意欲的な車で、 技術的にも性能面でもアルファの名に恥じないものだった。フロントのオーバーハングにエンジンを低くマウントすることで、 後輪駆動のジュリアシリーズ以上のコーナリング性能を手に入れたのである。
市場に大いなる賞賛を以って迎えられた「スッド」であったが、南部労働力の質的問題と、コストを下げるために使用した ソ連製の質の悪い鋼板によって、「スッド」は「芯から錆びる」クルマとなり、結果的に低品質車のレッテルを貼られ、 アルファの品質的なイメージを失墜させてしまうこととなった。
1983年登場した後継車「33」では、品質の問題はかなり改善されたが、 この問題が影を落とし、国外でのセールスが伸び悩んだ。
なお、このナポリ進出以降、エンブレムの「ALFA-ROMEO MILANO」から「MILANO」の文字がはずされている。
「スッド」は廉価モデルでありながらボディ・デザインを「ジュリア」で功績のあった G.ジゥジアーロに託し、スペース効率を上げるために新開発の水平対向エンジンを採用するなど大変意欲的な車で、 技術的にも性能面でもアルファの名に恥じないものだった。フロントのオーバーハングにエンジンを低くマウントすることで、 後輪駆動のジュリアシリーズ以上のコーナリング性能を手に入れたのである。
市場に大いなる賞賛を以って迎えられた「スッド」であったが、南部労働力の質的問題と、コストを下げるために使用した ソ連製の質の悪い鋼板によって、「スッド」は「芯から錆びる」クルマとなり、結果的に低品質車のレッテルを貼られ、 アルファの品質的なイメージを失墜させてしまうこととなった。
1983年登場した後継車「33」では、品質の問題はかなり改善されたが、 この問題が影を落とし、国外でのセールスが伸び悩んだ。
なお、このナポリ進出以降、エンブレムの「ALFA-ROMEO MILANO」から「MILANO」の文字がはずされている。
1972年- 「アルフェッタ」「ジュリエッタ」デビュー
ミラノのアルファロメオから、大成功を収めた「ジュリア」の後継となる新型ファミリーセダンがデビューする。
かつてF1GPで活躍した「Tipo158/159」の愛称を引き継ぎ「アルフェッタ」と名づけられたこの車は、その名のとおりGPカー譲りの
高度なメカニズムを持っていた。
高性能DOHCエンジン、対地キャンバー変化の少ないド・ディオンタイプのサスペンション、 バネ下重量軽減に効果のあるインボードタイプのリア・ディスクブレーキ、車両の前後重量配分を最適化するためのトランス・アクスルタイプの ドライブトレーンなど、これらは何れも車の運動性能・走行性能を高めるための仕掛けで、これらがスポーツカーならいざ知らず、 ごくごく普通のセダンに採用された点がアルファの面目躍如と言える。
しかしながら、設計の古いエンジンの性能を落とすことによる排ガス規制対応、意欲の低い生産ラインにそぐわない高度でコスト高の設計、 当時の世界的な水準から大きく劣った品質は、財務体質を改善するに至らず、さらにアルファの凋落を進めたとも言える。
なお、アルフェッタを元にしたモデルが、ブラジルにある工場で1986年まで生産されていた。 このシリーズの設計を活かして各種競技に使われたが、やはり機械的信頼性の低さから、ラリーではトラブルによるリタイヤで終わった。
75「アルフェッタ」の基本構造は下級車種「(新)ジュリエッタ」、そしてそれらの後継の「75」に引き継がれたが、 度重なるストライキで労働意欲が低下し、製造技術も世界標準から大きく劣ったアルファ社にとって、これまで以上に凝ったコスト高の製品は、 アルファの経営を圧迫することになった。
元来、性能性を重視し作業性や生産効率を二の次とする体質から、 既にそのような量産車メーカーが存続できない時代であったこと、それをブレイクスルーできる人材にも資金にも恵まれていなかったのが アルファ社の悲劇であった。
ちなみに商用量産車として初めて可変バルブタイミング機構を採用したのはアルファである。
高性能DOHCエンジン、対地キャンバー変化の少ないド・ディオンタイプのサスペンション、 バネ下重量軽減に効果のあるインボードタイプのリア・ディスクブレーキ、車両の前後重量配分を最適化するためのトランス・アクスルタイプの ドライブトレーンなど、これらは何れも車の運動性能・走行性能を高めるための仕掛けで、これらがスポーツカーならいざ知らず、 ごくごく普通のセダンに採用された点がアルファの面目躍如と言える。
しかしながら、設計の古いエンジンの性能を落とすことによる排ガス規制対応、意欲の低い生産ラインにそぐわない高度でコスト高の設計、 当時の世界的な水準から大きく劣った品質は、財務体質を改善するに至らず、さらにアルファの凋落を進めたとも言える。
なお、アルフェッタを元にしたモデルが、ブラジルにある工場で1986年まで生産されていた。 このシリーズの設計を活かして各種競技に使われたが、やはり機械的信頼性の低さから、ラリーではトラブルによるリタイヤで終わった。
75「アルフェッタ」の基本構造は下級車種「(新)ジュリエッタ」、そしてそれらの後継の「75」に引き継がれたが、 度重なるストライキで労働意欲が低下し、製造技術も世界標準から大きく劣ったアルファ社にとって、これまで以上に凝ったコスト高の製品は、 アルファの経営を圧迫することになった。
元来、性能性を重視し作業性や生産効率を二の次とする体質から、 既にそのような量産車メーカーが存続できない時代であったこと、それをブレイクスルーできる人材にも資金にも恵まれていなかったのが アルファ社の悲劇であった。
ちなみに商用量産車として初めて可変バルブタイミング機構を採用したのはアルファである。
1984年- 日産と提携
日産自動車と提携し、合弁会社「A.R.N.A.(AlfaRomeo and Nissan Automobili)」を設立。共同開発車アルナを生産した。
この車は日産の大衆車「パルサー」の車体にスッド由来の水平対向エンジンを搭載したもので、シャシーはもちろん、
外観上もフロントにアルファ伝統の盾型グリルが付くほかはパルサーそのもので、イタリア国内ではそこそこ売れたものの、
スタイリングは酷評された。しかし、コーナリングはスッド以上だったという証言もあるのが興味深い。
日本国内でもこの提携に呼応して「パルサー・ミラノX1」というグレードが設定され、日産ディーラーにアルファロメオのエンブレムが躍ったが、 それはイメージ戦略以上の何物でもなく、マーケティング上は双方にもたらすものはほとんどなかった。
このプロジェクト自体は結局失敗に終わったが、アルファロメオは日本メーカーの持つ高度な生産システムと品質管理について多くを学んだ。
日本国内でもこの提携に呼応して「パルサー・ミラノX1」というグレードが設定され、日産ディーラーにアルファロメオのエンブレムが躍ったが、 それはイメージ戦略以上の何物でもなく、マーケティング上は双方にもたらすものはほとんどなかった。
このプロジェクト自体は結局失敗に終わったが、アルファロメオは日本メーカーの持つ高度な生産システムと品質管理について多くを学んだ。
1986年- フィアットに吸収される
長く続く苦境ゆえに筆頭株主であるイタリア政府が株の売却を決定し、量産車メーカーとして覇を競ったフィアット社が引き受け、
その傘下に収まることとなった。海外メーカーであるフォードへの売却も有力であったが、採算を度外視してフィアットが引き受けたのは、
イタリアの誇りであるメーカーの海外流出を嫌ったジャンニ・アニェッリの政治力が働いたともいわれている。
164そしてフィアットは自社製品とのプラットフォーム統合を進める一方、唯一の資産であったブランドイメージの高揚に注力する。 前記のFR世代最後のモデル「75」、ES30が惜しまれつつ表舞台から退場する一方、1990年代初頭に、カロッツェリア・ザガートとの コラボレーションで限定生産されたES30(SZ/RZ)は、スポーツカーとしての素性の良さで評判が高かったが、 後輪駆動アルファの最後のあだ花となった。
フィアット買収直前に「ティーポ4」計画の一環として登場した「164」、買収後の「ティーポ3」計画から誕生し、 DTM(ドイツツーリングカー選手権)やBTCC(イギリスツーリングカー選手権)等でその名を轟かせた「155」、 その派生型として、独創的なフォルムに纏われて登場したパーソナルモデル「スパイダー/GTV」、155の下級モデルでいながら、 各々3ドアハッチバックと5ドアハッチバックセダンという独自の車種展開で登場した「145」と「146」、164の後継車「166」が 新時代のアルファロメオの名を担った。
156これらのモデルは、性能ばかりでなく、これまで未消化だった品質と信頼性の確保にも重きが置かれ、 アルファロメオの市場競争力を強めた。そして1997年、「156」が登場。伝統に立脚した鮮烈なスタイルと高性能が1998年度の ヨーロッパ・カー・オブ・ザ・イヤーを初めてアルファロメオにもたらし、日本を含む世界の大半の市場で好評を得た。 さらに2000年に発表された「145/146」の後継車「147」も2001年度カーオブザイヤーに選ばれた。
以後、156のクーペ仕様「GT」が登場、2005年には147がフェイスリフトを受け二代目になる。そのほかクーペ「ブレラ」と そのオープンモデル「スパイダー」、156の後継となる「159」が本国で発表されている。
164そしてフィアットは自社製品とのプラットフォーム統合を進める一方、唯一の資産であったブランドイメージの高揚に注力する。 前記のFR世代最後のモデル「75」、ES30が惜しまれつつ表舞台から退場する一方、1990年代初頭に、カロッツェリア・ザガートとの コラボレーションで限定生産されたES30(SZ/RZ)は、スポーツカーとしての素性の良さで評判が高かったが、 後輪駆動アルファの最後のあだ花となった。
フィアット買収直前に「ティーポ4」計画の一環として登場した「164」、買収後の「ティーポ3」計画から誕生し、 DTM(ドイツツーリングカー選手権)やBTCC(イギリスツーリングカー選手権)等でその名を轟かせた「155」、 その派生型として、独創的なフォルムに纏われて登場したパーソナルモデル「スパイダー/GTV」、155の下級モデルでいながら、 各々3ドアハッチバックと5ドアハッチバックセダンという独自の車種展開で登場した「145」と「146」、164の後継車「166」が 新時代のアルファロメオの名を担った。
156これらのモデルは、性能ばかりでなく、これまで未消化だった品質と信頼性の確保にも重きが置かれ、 アルファロメオの市場競争力を強めた。そして1997年、「156」が登場。伝統に立脚した鮮烈なスタイルと高性能が1998年度の ヨーロッパ・カー・オブ・ザ・イヤーを初めてアルファロメオにもたらし、日本を含む世界の大半の市場で好評を得た。 さらに2000年に発表された「145/146」の後継車「147」も2001年度カーオブザイヤーに選ばれた。
以後、156のクーペ仕様「GT」が登場、2005年には147がフェイスリフトを受け二代目になる。そのほかクーペ「ブレラ」と そのオープンモデル「スパイダー」、156の後継となる「159」が本国で発表されている。
2006年9月- 8Cコンペティーツィオーネ、買えませんヨ・・・
パリモーターショーにおいて、以前からコンセプトモデルとして提案されてきた8Cコンペティツィオーネが、
全世界500台限定で発売と発表された。市販化について一切の事前発表がないまま突如としてデビューしたこのモデルは、
450馬力を発生する4.7LのV型8気筒エンジンをフロントに搭載、駆動系は75以来となる後輪駆動方式を採用している。
実際の生産はマセラティの支援を受けるとされている。値段は日本円で2,200万円とアナウンスされ、その生産台数の少なさと相まって、 かつての高級・少数生産メーカーだったころをしのばせるものとなっている。
実際の生産はマセラティの支援を受けるとされている。値段は日本円で2,200万円とアナウンスされ、その生産台数の少なさと相まって、 かつての高級・少数生産メーカーだったころをしのばせるものとなっている。